昭和五十四年九月十六日 朝の御理解
御理解第四十九節
「信心は相縁機縁」
不思議な縁で、皆さんこうして合楽に御神縁を頂かれた。だから、いよいよ相縁にならなければならない、ただ機縁に終わったんではつまらん。本当に合楽に御縁を頂いたおかげで今日の私があり私の一家があり、というようにそのおかげでと言うものがなからなければ、又そういう縁に育てていかなければならない。
合楽に縁を受けたばかりに、こういう難儀が続くと言ったような事では相済まん事になります。けれどもやはり、その信心がいよいよ本当の事に育って参りませんと、それもやっぱりなり兼ねない訳ですから、御縁を頂いたおかげで、と言えれるおかげの道を歩かせて貰わなきゃいけません。
今日は四十九節というところを頂いた、だからこれが始終いっも苦しいという事ではいけません。勿論信心では苦しい、という事は苦しいとは申しませんね、修行と頂きます。また教祖様も一生が修行と仰せられます。だからその修行が有り難い、しかも段々高度な修行が出来て行くようになければいけません。
昨夜は富久信会でしたから、会長であります佐田さんが最後に発表しとられました中に、京都の京舞いですかね、地舞いの大家がおられます、もう昨日は年寄りの日でしたかね確か、それで何かその人と一問一答があっておったと、もう恐らく九十からではあんなさらんでしょうか、竹原ハン、と言う大変有名な方が丁度テレビで芸道の厳しさというものでしょうね、来年ですかその方の大きな会があるそうです。それに向かって毎日その踊りの、いわゆる舞いの稽古をなさる壁が一面鏡になっとる。その鏡を見ては自分の踊りの姿、所作というものを見て稽古をしておると、もういわゆる自分の欠点、長所というものが、はっきり分かって来る。
もうそれこそ一分一厘のすきがない程しの舞いと言われております。その竹原ハンの、もう、しかも恐らく九十以上でしょうかね、それでいてまあだ芸道に精進をしておられる、もうほんにどうして舞いの道なんかに入っただろうか、とこの年になるまでもこんな厳しい稽古をせなんならんと言うふうやない、もうそれが楽しうして有り難い、という意味の話をなさった事を、昨日佐田会長、その事を聞いて、その事を信心で発表しとられました。と言うようにやはり信心も同じ事、それこそ学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいと、もういよいよ完璧なものへ向かって進んでいく精進ですから楽しい、いうならばそれは始終修行であっても、もうそれこそ死ぬまで修行があってもいいね。それを苦から修行に頂き得る信心をお互い身につけて行きたい。
そういう信心を私は頂いて、いうなら修行の喜び、修行の楽しさ、というものが身について来て始めて、合楽に御神縁を頂いておってよかったなあ-、とこれは私自身が絶えず、もう何時も限りなく、なら合楽理念という信心が、もう完璧の域に入った、もう合楽の理念は宗教の最高理念だ、助かりの理念だ、というふうに言われとります。けれども完璧の域に入ったのであって完璧ではない。だからその完璧をめざして、なら最近言われますように、我れ小人の自覚に立つと言ったような、ま合楽理念の論説ですね。
又は、ここ二、三日頂いとりますように、ような難しいところに入っていくのですね。いうなら十字架をプラスにしていかねばいけない、と言ったような意味の事、これは大変な事だと、人間が本当に幸福になっていく為にはどうでもそういう行き方、とにかく一生十字架を担ぎ続けると言うのではなくてね、同じ例えば重たいものでも、それが重たく感じんで平気で嬉しう楽しう担いで行けれるような力を頂いていくという事である。と言うようなふうに説かれますね、まあだ、これが最高の論説ではなくて、まだまだ私が生きておる限りそういう信心がまた、いうならば発見され発掘して行かれるだろうとこう思うです。
私、昨日富久信会が始まる前に、この四日の神愛会の時にここに関係の先生方に、小さいこの位の皿を、先日菊栄会の信心実習の時に二十枚ですか買うてきとりました。その図柄が私は大変気に入りましたから、見事な座りかぶが画いてあるんです。それで私はその座りかぶの裏に、お道の教師と座りかぶは、座りの良いのを良とする。と私が全部に画いているのです、裏に。そして楯と一緒に共に皆さんに上げたね。もう金光様の先生でここの御結界を座っておる事が、もう、じゅつのうして応えんと言う先生のところでは人は助からん、もうそれこそ根が生えたように此処にもう、いやここの御結界、ここの畳み半畳と言うところが一番私の修行の場である、と同時に有り難い所であると言うところまで、行かなければ本当なものじゃない。そういう先生をま良とするんだ、と言う様な事が書いてあります。
そこで、お道の信者、信奉者はね、どういう信心にならせて頂いたら良とする事になるだろうか、という話を聞いて頂いた事でした。信者さんの中にも沢山様々な信心があります。ならどういう信心者をもっていうなら良とするのであろうかと、今日の四十九節じゃないですけれども、そのまあ一生が修行というなら始終苦労ばっかりしておるというのではなくて、その苦労が苦労ではない。竹原ハンさんじゃないけども、九十にも、もう百近くにもなって、やはりそのまだまだ芸道に励んでおられる、という自分の姿というものを見続けて、そこから長所欠点を発見して行かれておる。というようにですね、それは苦しい事ではない、もういよいよ言うなら芸道の厳しさ、という事も脇から見ればいう事ですけれども、その竹原ハンという人は、いうなら楽しいものであろう、有り難いものであろうとこう思うのですね。だから、そういう一線上に出らなければならない、どういう例えば修行があってもそれを修行、として本当に受け抜いていく修行の有り難さ、尊さというものが分かってくる信心。 私が十一才の時に、まだ私が子供会でおる時分に、親先生が学院から帰って来られた早々の頃、今総代をしております岸甚太郎という先生と、二人で表の玄関のところで話をしておられる。「先生もう何人ものこといらんから一人でよいから、本当の信者を作って下さい」と、いう話をしておられる、それを私が横におって聞いておった。その時に私が思うた事が、その本当の信者に私がなろう、とこう思うた。途端に感動がわいてきた。おかしい程に涙がこぼれる、横のミカン畑に入って泣いた事の感じを今もやはり持ち続けて、しかも今もそれに私がそれこそ一志一心である。
一つの志しを一心に貫こうとしておる、これは生涯かけての事であろうね、そこでです、なら本当の言うならば座りの良いのがお道の教師であるならばね、私共信心者、信奉者、これは教師、信者を問わずですけどもね、その真の信心をめざしてもらう、しかも一志一心貫けるそこには必ず辛抱力が必要であるという事。最近力という事、それは神を信ずる力、または祈念力、祈念の力、けれどもどうでも、いわゆる、三代金光様じゃないけれども、信心に一番大切なものは辛抱する事であります、と仰しゃるね。これは御自身の体験から教えられた言葉だと思います。
信心には辛抱する事が一番大切であります。と昨日もああした総会で、皆さん疲れておられたんでしょうけれども、また夜の富久信会には皆出て来ておられました。そして昨日はもう一人一人、大変素晴らしいお話をして聞かせて頂きましたが、やはりこの修行という心、辛抱力を作る為にはやはり修行の精神というものが、この旺盛でなからなければ出来る事ではない、とこう思いますね。いうなら真の信心さえめざせば、というとこれではあまりもの信心であって、そんなら金光様の信心しとるから、もう何十年続いとるから私は真の信心をしておる、という人はもうごく少ないのである。真の信心者には、真の信心に伴うところの、いうなら真のおかげが伴うところまで、これを究明して行かなければいけませんね。
例えば形に表れてくる、そのおかげに一喜一憂するような信心ではない、これはまあだ自分の信心が足りぬからだ、と言うような生き方の中に修行があるね。そういう生き方の中からね、いよいよ極めていくところに、いうならば合楽で言われる、あれもおかげであった、これもおかげであった、という事が分かるようになると本当の信者じゃと仰しゃるように、一切をおかげと頂ききれるところまで、又そういう信心をめざしておる信心者を、私はね良とする信者という事になるのじゃないだろうか、と言うふうに思うんです。
折角、おかげを頂きまして合楽に縁を頂いた。合楽ではもうこの事をいうなら、しかも私が少しづつではあるけれども真の信心を進めて行っておる、その信心に皆さんが連いてお出でられるね、そこから私はね、合楽に御縁を頂いておった有り難さ、と言うものを一段と感ずる事が出来るようになるだろう、初めていわゆる私と合楽とは相縁であったんだ、いうなら相性がよかったんだという事になる。
例えば夫婦の縁でも、もう本当に私どんばっかりは、もう腐れ縁じゃったじゃろ、と一生良か事なかった、と言うような事ではつまらんでしょうね、もう本当に相縁であったと、いうなら若い時に随分苦労もしたけれどもね、段々年を取るに従って素晴らしい事になって来た、という縁に私共育てていく事の為にどうでも焦点、いわゆる眼目を本当の所に置いての信心でなからなければならん、という事になります。 どうぞ。